生き抜いてみよう
《とことん生き抜いてみよう!》
わたし自身、生きていることが苦しかったり、生きていることが恥ずかしかったり、心苦しかったり、後ろめたかったりしたことがあります。生きていても何の良いこともないと思えたり、行き続けていることが罪悪であるようにすら感じたことがありました。
それなのに、なぜ生きているのか。うまく説明できませんが、わたしの心の中に、いろいろな考えが複合的に働いて、生き延びる道の後ろめたさを支え、慰め、励ましてくれたのです。
第一に、それでもなお、わたしの中に「生きたい」という思いのかけらが少しは残っていることに気づいたこと。
第二に、わたしのことを大切に思い、わたしが死んだら悲しむだろう人がいると気づいたこと。
第三に、いろいろな人の生き方の伝記を見るにつけ、「もしかしたら、恥をしのんで生き抜いた先に、今の自分には考え付かない、新しい道が開け、恥をそそいで、自分にも人にも役立つ人生があるかもしれない」と考えたこと。
第四は、聖書によって、わたしを愛して下さるキリストの愛というものを示されたことでした。わたしは、「まず、自分自身をゆるさねばならない」、「自分のように苦しんでいる人がほかにもいるかもしれない、人に受け入れてもらえない、自分で自分を受けいれられない、そういう人たちと共に、神の愛ということを考え、追い求めていく道があるかもしれない。」 そういう可能性を求めて、神学校に入学しました。
聖書の教えとキリストの愛は、そういう可能性を示してくれただけではなく、実際にその道を歩むための、慰めと、励ましを与え、平安を与え、人生についての深い理解を与えてくれました。
わたしと同じではないかもしれません。しかし、あなたの人生にも、今はまだ見えていない多くの可能性が残されています。ともかく、与えられた一生は、とことん生き抜いてみなければ、結論はでません。どんなに苦しくても、それが人生だと思い、苦しみ抜いてみましょう。わたしは、必ずその向こうに光が見えてくると思います。


Comments
はじめまして。TAKAと申します。壮絶な過去を背負い、重い鬱病となり早2年。でも色々な事を試してみた。そして「大きな」決断をし、プロテスタントで洗礼を受けました。ですが、通っているのはカトリックk教会。常に疎外感を感じています。神父の目の前で泣いているのに、何のお声一つもない。
奉仕者の方々に切に相談しても「お忙しいから・・」
その一方で、その神父は、同年代の信徒達と飲み会を開いている。シャロームっていったい・・・こんな日々で鬱病が悪化し、もうすぐ入院となりました
Posted by: TAKA | 2006.10.03 at 01:38 PM