話し合いながら生きていこう

  一緒に、話し合いながら、生きていきましょ
 う。
           タック・長田(おさだ)秀夫
 
 人は、一人では生きていけません。
 何が無くても生きていけますが、人の仲間が
 いなければ生きていけません。話をしなくて
 も、自分の命が大勢の人に支えられていると
 感じて、感謝をしていれば、生きていけるでし
 ょう。
 
  しかし、何よりも、人に必要なのは、人との
 会話です。特に意味の有ることでなくても、
 言葉を交わすことで、人の心は支えられ、満
 たされます。
  人の心の病気や、孤独の特効薬、または
 補装具は、人との交流、会話です。

  ともかく、何らかの形で、毎日人と会話をし
 ましょう。ただのあいさつでも、他愛のない会
 話でも、それが、わたしたちの心を、命を支え
 るのです。

  近年、店のおじちゃん、おばちゃんと挨拶を
 交わすということがなくなってきました。家族
 でも、ほとんど会話をしない家が増えてきた
 そうです。

  閉じこもっている人、勇気を出して、地域の
 支援センターや、グループに出かけてみまし
 ょう。キリスト教会の牧師に声を掛けてみて
 下さい。また、教会を訪ねてみて下さい。
  「いのちの電話」に電話をしてみましょう。
  
  人間同士じゃありませんか。話しかけて、
 嫌がる人もいるかもしれません。そういう人
 には、あいさつだけにしておきましょう。
  気軽に話しやすそうな人が、必ず、あなた
 のそばにもいるはずです。ボランティアのグ
 ループは、人と話をするのが好きな人々の
 集まりです。趣味のグループや、社会に奉
 仕するグループは、仲間をさがしています。
 
  あなたも、ちょっと勇気を出して、人に声を
 かけてみてください。人と人とが話し合いな
 がら、支えあいながら生きていくのが、人間
 の世界です。誰もが、話し相手を必要として
 います。そして、あなたも、支えられるだけ
 でなく、支える人になるのです。世の中は、
 そういうものです。

  

| | Comments (0) | TrackBack (0)

自分一人の命ではない。

  わたしは、「タック」。 キリスト教会の牧師
です。 「牧師なら、お説教か」、と思う方もお
られるでしょうが、わたし自身が自殺願望に取
りつかれて、苦しんだことがあり、多くの友人
を自殺でなくしているので、心から、あなたに
向かって語りかけるのです。

 「あなたの命は、あなた一人の命ではない」
と言うことです。

 あなたの命は、皆の命とつながっています。
あなたの命を生かすも殺すも、それは、あなた
に任されているように見えます。そして、あな
たは、苦しくて、空しくて、孤独で、行く先真っ
暗で、自殺念慮に取り付かれています。もう
疲れて、生きたいという気持ちよりも、死んで
しまった方が良いという思いが強くなり、そし
て、死んでしまった方が楽になるのではない
かという思いが、起こり始め、今ならやれそう
だと、思い始めているのです。

 しかし、知って下さい。
あなたに預けられている、あなたの命は、あ
なただけの物ではありません。 それは、神
様の物、そして共に生きている皆の物でもあ
るのです。
あなたが、それを良いことに使えば、皆が幸
せになり、悪いことに使えば、皆が不幸にな
ります。自分一人で苦しみを担い切れなけ
れば、皆に助けを求め、応援を求めたらよい
のです。それは、恥ずかしいことではなく、
悪いことでもありません。

それに、あなたの命は、何十億個か、数え
切れない数の細胞の集合体です。そのすべ
ての細胞は、あなたの大脳の指令に従い、
命の運命を託しているのです。あなたの大
脳が、生きようとする意欲を失い、死を選択
してしまおうとするとき、何十億個の命が断
末魔の叫びを上げ、絶望し、おののいて悲
鳴を上げています。司令官を失った軍団の
ように、彼らを救って上げて下さい。

 人の命は、そこを乗り越えれば、必ずまた
うれしい、明るい光にめぐり合うものです。
そのとき、苦しい体験があればこそ、生きて
いる喜びはいっそう大きくなるのです。
 あなたが生きていることは、わたしたちに
とっても、喜びであり、励ましなのです。


 


 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

助け合って生きていこう!

  わたしの「タック」というニックネームは、高校生の時、キャンプで、山の頂上に登り、皆で感激して、ハレルヤの大合唱になったとき、わたしがタクトをとったので、友人が「タクト」と名づけたのです。それが、変形して「タック
さん」と呼ばれるようになりました。普段は呼ばれませんが、夏のキャンプでは、こどもたちが「タックさん」と呼んでくれます。
 
 さて、わたしは、キリスト教会の牧師なので、人の話を聞いてあげたり、相談に乗ったり、聖書の教えや、慰めや
励ましを語ったり、自分の体験を話したり、お祈りしたりすることが多いのです。それらのことは、一見、わたしがどなたかに、何かをして差し上げているように見えるのです。しかし、今わたしは、そういう気持ちをまったく持ってはいないのです。して上げる人と、してもらう人とがいるというのは、見かけ上のことで、実は共に生きている者同士
がいるのだと感じています。お互いの持っている、知識、体験、技術、喜び、悲しみさえも、分かち合って、助け合い、共に生きる喜びを味わっていくのが人生でしょう。よく、「喜びは二人で分かち合うと二倍になり、悲しみは二人で分かち合うと半分になる」と言います。まったくその通りで、そこに、共に助け合って生きていく喜びを感じるのでないなら、金持ちでも、健康でも、孤独だと言わなければなりません。

 心の病気に苦しむ人たちが実に多いのですが、病気と障碍を体験して、「なぜ、自分だけ、こんな病気になったのだろう」とか、「自分も人並みの人生を歩みたい」と考えたり、苦しんだり、絶望したりした体験をくぐり抜けて、
「共に助け合って生きていく」ことの喜びにたどり着く人たちが増えてきています。医学が進んで、回復への道が開けてきたということもあります。しかし、まだまだ回復の道は困難です。しかし、そのような状況下で、完全回復とは何か、と考えさせられます。薬を飲まなくてよくなること、結婚、就職などが出来るようになること、それが回復でしょうか。正常と言われている人たちが忘れているもの、失っているもの、「人が助け合って共に生きる喜び」を取り戻した人は、真の回復への道を歩みだした人です。正常だと言われている多くの人々が、実は病んでいる人人なのです。

 わたしは、ボランティアで、精神科病棟に座っているときが、一番心休まるときです。わたしも、休みを必要としている人間だからです。そして、入院している方々も、また社会に出てきたときには、何のへだてもなく、仲間として
一緒に生きていこう、という気持ちを表わそうと思っているのです。そこで、ボランテイアとして何かをすることが大切なのではなく、一緒にいることが大切なのだと思っているのです。

 自分はダメだ、役に立たない、人にしてもらうだけだ、迷惑をかけるだけだ、人に嫌われている、いないほうがよい人間だ。そんな風に考えておられる方がおられるなら、それは、大きな間違いです。あなた自身が偏見に捕われて、人間を差別して考えているのです。 いらない人間などはありません。 皆が助け合い、共に生きていくことの中に本当の喜びがあるのです。それを悟るまで生きてください。人生の課題です。つらいなら、そのときこそ、助け合って共に生きていきましょう。

  

| | Comments (1) | TrackBack (1)

生き抜いてみよう

 《とことん生き抜いてみよう!》
 わたし自身、生きていることが苦しかったり、生きていることが恥ずかしかったり、心苦しかったり、後ろめたかったりしたことがあります。生きていても何の良いこともないと思えたり、行き続けていることが罪悪であるようにすら感じたことがありました。
 それなのに、なぜ生きているのか。うまく説明できませんが、わたしの心の中に、いろいろな考えが複合的に働いて、生き延びる道の後ろめたさを支え、慰め、励ましてくれたのです。
 第一に、それでもなお、わたしの中に「生きたい」という思いのかけらが少しは残っていることに気づいたこと。
 第二に、わたしのことを大切に思い、わたしが死んだら悲しむだろう人がいると気づいたこと。
 第三に、いろいろな人の生き方の伝記を見るにつけ、「もしかしたら、恥をしのんで生き抜いた先に、今の自分には考え付かない、新しい道が開け、恥をそそいで、自分にも人にも役立つ人生があるかもしれない」と考えたこと。
 第四は、聖書によって、わたしを愛して下さるキリストの愛というものを示されたことでした。わたしは、「まず、自分自身をゆるさねばならない」、「自分のように苦しんでいる人がほかにもいるかもしれない、人に受け入れてもらえない、自分で自分を受けいれられない、そういう人たちと共に、神の愛ということを考え、追い求めていく道があるかもしれない。」 そういう可能性を求めて、神学校に入学しました。
 聖書の教えとキリストの愛は、そういう可能性を示してくれただけではなく、実際にその道を歩むための、慰めと、励ましを与え、平安を与え、人生についての深い理解を与えてくれました。
 わたしと同じではないかもしれません。しかし、あなたの人生にも、今はまだ見えていない多くの可能性が残されています。ともかく、与えられた一生は、とことん生き抜いてみなければ、結論はでません。どんなに苦しくても、それが人生だと思い、苦しみ抜いてみましょう。わたしは、必ずその向こうに光が見えてくると思います。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

生命の不思議を見つめて

  本当に死んでしまいたくなるような気持ちというものを、わたしはよく分ります。また、今、そんな気持ちで日々を送っている方々に対して、「間違っている」とか、「あさはかだ」とか、いう気持ちはありません。
  本当に苦しいとき、死にたいとき、死んでしまった方がいいように思えるときがあるものです。そのとき、その気持ちを引き止めるものは何でしょう。自分が死んだら悲しむ人たちのこと、愛していてくれる人たちのこと、あるいは、何か分らないけれど、死に対する漠然とした恐怖、まだ、決定的なことをしてしまうには早いのではないかという躊躇、そして、「自殺はいけない」と強く刷り込まれた観念。そんなものの何かが、引き止めるのでしょう。でも、疲れ果て、苦しすぎて、考える力が衰え、一方の考えだけに病的に押しやられ、躁と欝の境のような所で、決行してしまうのです。
  「自殺してはいけない」という以上の、強い抑止力が、常に心を支配していなければ、穴に落ち込んでしまいます。「死ぬ」という考えが無ければ、自殺など考えません。「生きよう」という心が支配していれば、どんなに苦しくても、「生きよう、生きよう」とするでしょう。
  幼いときから、生きているということの神秘さ、不思議さ、尊さを、よく教え、よく考えるように仕向けていかなければなりません。他の生命を尊び、自分の生命に危機がしのびよったら、どんなことをしてもそこから逃れなければならないという思いを、植えつけておくことです。
  今、自殺念慮に取り付かれている方々、「生きよう、生きよう」と、一日中繰り返し、ご自分に言い聞かせてください。そして、誰にでも、自分の気持ちを打ち明け、今危機に立たされていると訴えてください。
  そして、くれぐれも、危険なところ、危険な行動に近づかないで下さい。誤って、本当に命を落としてしまうことがありますから。今、その危機を抜ければ、また、違ったものが見えてきます。必ず、別な道が開かれます。苦しんでいるもの同士が励ましあい、とてもすばらしい愛を育てることもあるのです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

なぜ、自殺はいけないか。

 本当に自殺しようとする人は、周囲の人に何らかの信号を出すことが多い。しかし、はっきりと「自殺したい」と言って、相談する場合は少ない。周囲の人々は、いつも、後から、気が付いてやれなくてすまなかったという気持ちにさいなまれる。しかし、後からではどうしようもない。
 だから、わたしは、こうして、皆で一緒に、あらかじめ、普段から、自殺について考えておこうとして、この文章を書いているのです。
 「なぜ、自分で死んではいけないのか?」という問いに、わたしたちは、答えられなければなりません。この際、
すでに決行してしまった人々を非難することは、しないことにしましょう。「つらかったね、ご苦労様」とだけ、言って
おくことしかできません。しかし、今生きているわたしたちは、しっかりと考え、話し合っておかなければなりません。次のような見出しで、少しずつかいていきたいと思っています。
1.生命の不思議を見つめて。
2.とことん生き抜いてみよう。
3.助け合って生きていこう。
4.自分一人の命ではない。
5.話し合いながら生きていこう。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

自殺しないで!

 一年近く、このブログに何も書き込むことが出来なかった。それほど、わたしの受けたダメージは大きく、
ショック状態から立ち上がることが出来なかった。
 彼は、50代後半の男性、若い時から「統合失調症」を病み、同じ病気の妻と共に暮らしてきた。独立心
が強く、よく働いたが、時々状態が悪くなって、入退院を繰り返した。15年ほど前に妻が他の病気で死に、
孤独になった。酒も加わり、近所で騒いだり、最後には、精神病院の院長の家に暴れこんだので、長期入
院となり、10年以上を病院内で過ごした。すっかりおとなしくなり、色も白く、小太りになった彼は、かわい
そうだった。問題は起こすが、活発に働いていた彼が好きだった。
 病院は、なかなか面会をゆるしてくれなかった。何回も掛け合い、家族のふりをして、やっと合わせてもら
えるという状態だった。その場合でも看護人がそばに付いた。この病院は、他にもいろいろな問題を起こし、
指導を受けて、改善され、面会がゆるされるようになった。さらに、退院者のための施設を作り、デイケアも
整え、さらには、良い状態の人々をグループホームに入れるようになっていった。この方針は良い。
 彼は、次第に社会復帰のコースを歩みだし、グループホームでの生活をするようにまでなった。しかし、
喜んでいられるだけではすまなかった。彼と付き合うときに伴う数々の問題を、わたしは抱え込む覚悟をし
なければならなかった。元気になり、社会に出てきた彼は、ひんぱんに電話をかけてきた、行きたい所が
あれば、連れて行ってくれとせがんだ。わたしは、覚悟を決めて、だめなことはだめと言い、しかし、出来る
限り付き合うことにした。
 夏、「今度の日曜日には、教会の礼拝に出たいから、迎えにきてくれ」と言うので、朝迎えに行く約束を
した。 数日後、先に入所していた施設の友人から、わたしに電話があった。「昨夜、彼は自殺しました」
と、彼は告げた。 このところ、ハイの状態が続いていた、すこしはしゃぎすぎていると思ってはいたが、
それが一挙に、落ち込んで、元気と、絶望の境目で、死を決行してしまった。
「今夜、12時に決行する」とだけ書いた紙切れが残されていた。
 退院しなかった方が良かったのか。もちろん、まわりに、わたしなどよりももっと細やかに気をつけてくれ
る保護者がいてくれたら良かったに違いない。しかし、何と言ってもせんないことである。わたしは、だだの
友人でしかなかった。それ以上の者になることは出来なかった。しかたがない。しかし、それでも、彼の
人生を応援する友人の一人であると思っていた。しかし、何の役にも立たなかった。
 わたしは、ショックを受けた。謙虚にされたのは事実である。限界を悟った。しかし、このような病気を抱え、
社会復帰をしようとする人々に、もっと細やかな社会の支援が必要だと痛感した。
 そして、皆に言いたい。仮に病気の状態で、自殺念慮が起こったとしても、自殺の誘惑や、引き込むような
力に捕らえられたとしても、それでも、自殺の決行は思いとどまってほしい。あなたの死を本当に悲しむ者が
いるから。人間仲間がつらいから。そして、そんな試練を共に乗り越えて、生きていくのが人間だから。
                                              2006年7月2日

| | Comments (0) | TrackBack (0)

米国もあやまれ!

 今年も、8月6日が近づいてくる。
広島とは何か?
それは、人類の罪の矢が天に向けられ、
落ちてきて、自分たちの子らに突き刺さった日だ。

不幸にも、悲しくも、被爆した人々の悲惨と苦難は
言うに及ばず。

あの日以来、全人類が、それまでの歴史の罪のす
べてにまさる罪責を担ったのだ。
「人を人と思わず、無差別に殺し尽くし、生き残っ
た人々をも、最後まで責めさいなむ。」
人には、そのようなことをする権限が、天から与え
られてはいない。

「戦争の終結を早め、犠牲者を少なくするため、
やむをえなかった」という弁明は、通用しない。
 核爆弾の脅威、悲惨、残忍性を知った今、当時の
いきさつや、状況はどうであれ、米国は、広島、長崎
に詫びよ! 全人類に向って詫びよ! 天に向って
赦しを請え。
 そして、全人類が、戦争をやめ、核兵器を捨てる決
意をしなければならない。
 人類は、核兵器を作り出し使ってしまった自分たち
に向って怒り、恥じ、ざんげし、平和を決意せよ。
それなくして、テロリストを非難することなど出来ない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

自殺しない、戦争しない 《目次》

自殺は絶対にしないようにしよう。
戦争や、その準備には、断固反対していこう。

  目   次       右下バックナンバー月

(本ページ掲載分は、新記事が上です。)

自殺だめ、戦争だめ       January 2005
 (自殺について、悲しい出来事1,2,3、)

集団自殺の心裡        February 2005
戦争は庶民を不幸にする
自殺の誘惑 

自殺志願体験記 1.2.3.   March 2005

国歌第二番              April 2005

君が代、変えちゃえ!        May 2005
恐ろしい戦争体験 1.2.3.
戦争準備反対

戦争準備より援助         June 2005
 
北朝鮮へ食料援助を        July 2005

| | Comments (0) | TrackBack (0)

北朝鮮へ食料援助を!

北朝鮮へ食糧援助を!  
             
 「米国政府が北朝鮮に5万トンの食糧援助」と
報じられました。「飢えている人々も一息つけるだ
ろう。六カ国協議再開にも好影響があるだろう」と
いう風な論評つきでした。
 しかし別な報道は「北朝鮮で今飢えている民衆
650万人。最大の援助団体である『国連世界食
料計画』の支援目標量は穀物50万トンだが、送
ったのはまだ24万トンのみ」と言っています。 
「取り入れ前のこの時期、飢餓状態の人々の配
給は、日に、200グラムだけ」とも。    

 相前後して「日本政府の援助米横流しの証拠」
と言って、日の丸が印刷された米袋の写真が新
聞に出ました。
 こんな報道が前にもありました。「横流しだ」「い
や、米袋を再利用しているだけだ」。確認の取れ
ていない報道に読者は振り回され続けるだけで
す。 
              
旧約聖書、列王記下6章のお話です。イスラエ
ルに攻め込んできた隣国アラム軍の疲れ果てた
軍隊をどう扱ったらよいかと、王から諮問(しもん)
を受けた預言者エリシャは、「パンと水を与えて食
事をさせ、主君のもとに行かせなさい」と答えまし
た。

 大戦で敗れ、ボロボロになっていた日本に、南
北アメリカの多くの人々の好意と祈りによる「ララ
物資」が届けられ、特にこどもたちがそれで生
き延びました。「ララ」とは「アジア救済公認団体」
の略です。政府から援助の認可を受けるために大
変な苦労があったと聞いています。
 聖書は言います。「あなたの敵が飢えていたら
彼らに食べさせ、渇いていたら飲ませなさい。」
       (ローマの信徒への手紙十二・20)。

 敵を作らず、和解の種をまくために、今一番必要
なことは、北朝鮮の飢えた人々への食料援助で
あると思います。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

«戦争準備より援助